不二農園の歴史
裾野市の桃園地区に広がる不二農園は不二聖心女子学院のキャンパスと一体をなし、その歴史は、明治の初期、禄を離れた江戸幕府旗本7名が官有地払い下げを受け、農場を開墾し茶を捲いたことから始まります。
その後、明治の頃、遠州森町生まれの実業家で、後に大日本精糖会社を設立した製糖業の第一人者、鈴木籐三郎氏に引き取られ、「鈴木農場」として茶のほか、果樹、酪農、造林にも手を広げました。
さらに、大正初期、当時北浜銀行の頭取で関西財界の有力者であった岩下清周氏がこの農場を受け継ぎ、「不二農園」と改め、氏は近代農業に取り組む一方、私財を投じて地域の子供たちのために温情舎小学校(不二聖心の前身)を同地に設立しました。
その志は、長男でカトリックの司祭でもあった岩下壮一氏(当時、神山復生病院院長、温情舎小学校校長)に受け継がれ、戦後昭和20年、岩下家より、約21万坪におよぶ同農園が聖心女子学院に寄付され、今日にいたっています。(同年、温情舎小学校の経営も移譲されました。)
不二農園は、その景観の見事さとともに茶摘の体験学習や植生研究の場としても活用されており、また、ここで作られたお茶は聖心各校の卒業生を中心に幅広く愛飲されています。